雨が激しく降っています。台風18号です。皆さまがお住みの地域は大丈夫でしょうか?
さて、今回は哲学者フリードリッヒ・ニーチェのお話です。
読書の秋ということで、このところ文学の話が続いておりますが、アニメや映画の話に比べると、やはり人気がありませんね・・・でも、たまにはカタめの話もいいでしょ?・・・どうですか、お客さん?・・・あはは(汗)・・・
もう10年以上まえの話ですが、某有名国立大学へ通う女子大生とお友達になったことがあります。彼女と会話中、私が何気に「ニーチェが・・・」と言ったところ
「誰、それ?」
「誰って、ニーチェだよ。ほら、有名な哲学者の」
私がそう説明しても、彼女は「そんな人、知らない。聞いたことも無い」と言います。
驚きましたねえ。一般の若い女性がニーチェを知らなくても当然でしょう。しかし、彼女は日本で5本の指に入る難関国立大学の学生ですし、高校時代はおそらく学年で1番か2番だったのでしょうから、ニーチェの本を読んだことは無くとも、名前くらいは知っていてもおかしくないはずです。ところが、彼女はニーチェもサルトルも、名前すら知らないと言うのです。
「ふーん。そうなんだ。今やもう誰もニーチェなんか知らないんだ」
と、私がいささか寂しい気持ちでいたところ、その数年後に白取春彦という人が翻訳・編集した「超訳 ニーチェの言葉」(ディスカバー・トゥエンティワン社刊)がベストセラーに。
「なにそれ? みんなニーチェを知ってんじゃないのよ!」
と再び驚く私でした。世の中、一体どうなってんの?
ニーチェが登場する映画といえば、当ブログの記事「ドミニク・サンダ」でご紹介した「ルー・サロメ/善悪の彼岸」(1977)です。
ベルイマン映画でお馴染みのエルランド・ヨセフソンがニーチェを演じておりました。
ドミニク演じるところのルー・サロメ嬢(ザロメと表記されることもある)は、ニーチェと哲学者パウル・レーの3人で写した、いわゆる「三位一体」の写真が有名です。ムチを持ったサロメが馬車に乗り、その馬車をニーチェとレーが引っ張っているというシチュエーションの写真。
サロメにとってニーチェはさほど魅力のある男ではなかったようです。サロメはニーチェを振り、レーと同棲します。それが原因かどうか分かりませんけど、ニーチェは発狂。その後、レーと別れたサロメは、詩人リルケといい仲になります。
いつの時代もモテない男はつらいものです。哀れなり、ニーチェ!
ニーチェの本をぜんぶ読んだわけではありませんし、ニーチェの哲学を研究したこともありませんので、私にニーチェの哲学について語れと言われても無理です。
私がニーチェに惹かれたのは、哲学というより、彼の書く文章によってでした。岩波文庫「この人を見よ」から少し引用してみますね(手塚富雄訳。以下の引用はすべて同じ)。
わたしはわたしの運命を知っている。いつかはわたしの名に、ある巨大なことへの思い出が結びつけられるであろう・・・かって地上に例をみなかったほどの危機、最深処における良心の葛藤、それまで信じられ、求められ、神聖化されてきた一切のものを粉砕すべく呼び出された一つの決定への思い出が。わたしは人間ではない。わたしはダイナマイトだ・・・
どうです? カッコいいでしょう? こんな文章、書いてみたいものです。憧れます。
頭の悪い私にはニーチェの哲学の深い部分は理解できません。しかし、以下のような箇所は、私にもよく分かるというか、実感があるというか、共感できます。
・・・またそのころ、わたしははじめて気づいた、本能に反して選ばれた活動、いわゆる「職業」と、何かの麻酔剤的芸術(たとえばワーグナーの芸術)によって寂寥感、飢餓感を麻痺させようとするあの欲求とのあいだには関連があるということに。
注意して周囲を見まわすと、多数の青年たちが同じような窮境にあることをわたしは発見した。一つの反自然はかならず第二の反自然を強要するのである。
ドイツでは、もっとはっきり言えば「帝国」では、あまりにも多くの人間が、然るべき時の来ないうちにおのが進路を決定し、やがて投げ出せなくなった重荷の下で病み衰えてゆくという悲運を担っている・・・こういう連中が、阿片を求めるようにワーグナーを求める。ワーグナーを聞いて彼らは我を忘れる。一瞬自分から解放される・・・いや、一瞬ではなかった! 五、六時間は自分から解放されるのだ・・・
これまたカッコいい文章ですよね。最後の部分の皮肉が効いています。素晴らしい。
それでは「この人を見よ」のラスト部分を引用して、今回はおしまいといたします。
「この人を見よ」はニーチェの入門書として最適ですし、読みやすく面白いので、ぜひいちど目を通してみてくださいね。
・・・生の反対概念として発明された「神」という概念・・・その中には、一切の有害なもの、有毒なもの、悪意的なもの、つまり生に対する不倶戴天の敵どもの全部が糾合されて、一つの恐ろしい統一体をなしているのだ!
「彼岸」とか「真の世界」とかの概念は、現に存在する唯一の世界を無価値にするために・・・この地上の現実のための目標も、理性も、課題も一つとして残しておかないようにするために、発明されたものだ!
「霊魂」や「精神」、さらに「不滅の霊魂」といったような概念は、肉体を軽視し、それを病的に・・・「神聖に」・・・するために、人生において真剣に扱うべき一切の事柄、すなわち栄養・住居・精神的健康法・病者の看護の仕方・清潔・天候などの諸問題にぞっとするような軽率な態度をもって対処するために、発明されたものだ! 健康の代わりに「霊魂の救済」・・・これはつまり、懺悔のけいれんと救済のヒステリーのあいだを行き来する周期的狂乱である!
「罪」という概念は、それに付属する拷問道具、すなわちあの「自由意志」という概念ともどもに、本能を困惑させるために、本能に対する不信を第二の天性とするために、発明されたものだ!
「無私の人」、「自己を捨てる人」という概念においては、真のデカダンの徴候、すなわち、有害なものに誘惑されること、自分にとって何が有利かがもはやわからなくなること、自己を破壊することが、総じて価値のしるしであるとされ、「義務」とされ、「神聖」とされ、人間における「神的なもの」とされている!
最後に・・・これがもっとも恐るべきことだが・・・「善人」という概念においては、すべての弱者、病人、出来そこない、自分自身を悩みとしている者、つまり破壊してしかるべき一切のものが、支持され・・・淘汰の法則がはばまれ、誇りに充ちた出来のよい人間、肯定する人間、未来を確信し、未来を保証する人間に対する否定が、理想として祭りあげられ・・・そういう立派な人間がいまや悪人と呼ばれることになる・・・しかも、これらのこと一切が道徳として信奉されたのだ!・・・このけがらわしいものを踏みくだけ!・・・
・・・わたしの言うことがおわかりだったろうか? ・・・十字架にかけられた者 対 ディオニュソス・・・