今日から3月。
昨日(2月28日)は春の陽気でしたね。しかし、また寒さがぶり返し、関東地方は積雪の恐れがあるとか。いやだなぁ・・・せっかく家の周りの雪が溶けて喜んだばかりなのにさ・・・
ファッション誌をパラパラめくりますと、やたらとこの色が目につくのですけど、どうやら今年、2014年はネイビーブルーが流行色みたいですね。これからジャケットやスプリングコートを買おうと思っていらっしゃる方は、ネイビーブルー色のものを選んだらいいかもですよ。あはは。
元AKB48の板野友美《ともちん》さんのそっくりさんタレント《ざわちん》さんの「ものまねメイク」が話題になっております。メイクひとつでこうも色々な顔に変身できるとは驚きです。たとえば、ソチオリンピックでの感動がまだ記憶に新しい浅田真央ちゃんの顔になったり
嵐の5人組に化けたり
AKB48の大島優子さんに変ったりと
実にお見事です。他に滝川クリステルさんや浜崎あゆみさんや沢尻エリカさんに変身した映像を拝見しましたけど、どれもそっくりでした。素晴らしい才能です。センスがいい!
さて、私のこのブログですが、2月は他の月より記事の数が多くなりました。それは、ソチオリンピックでの日本人選手の活躍が、私の精神を活性化してくれたからです。強い感動を受けると精神活動が活発になり、また受けた感動を他人に伝えたくなりますものね。それでついつい普段より多く書いちゃったんですよね。えへへ。
そういえば三島由紀夫が、1964年の東京オリンピックを終始上機嫌で取材し、たくさんの観戦記を書き残しておりました。彼もオリンピックに感動し、オリンピックからエネルギーをもらったのでしょうか?
この事に関連して思い出した文章があります。心理学者・岸田秀氏の著書「続ものぐさ精神分析」に収録されている「三島由紀夫論」です。三島由紀夫に関しては様々な人が様々に論じておりますけど、私の読んだ中で最も説得力があったのが、この論文です。そこで本日は岸田さんの「三島由紀夫論」を皆さんにご紹介したいと思います。
ちなみに岸田さんは、当ブログの記事「30年前の現代思想」に書いた、1980年代前半の日本を席巻した現代思想ブームの折に、栗本慎一郎氏や柄谷行人氏らと共に注目されていた学者です。
・・・三島由紀夫の精神ははじめから死んでいた。この現実の世界に生きているという実在感の欠如に、彼の文学、その他の活動を解く鍵がある・・・
岸田氏はまずこう書きます。
どうして三島由紀夫の精神は死んだのか? それは育てられた環境に原因がありました。三島の著書「仮面の告白」に書いてある通り、自己中心的で支配欲の強い祖母が初孫の三島を溺愛し、常に自分のそばから離さなかったのです。
・・・こういう状態のもとでは、祖母を歓ばせることは父母を淋しがらせることであり、父母の意に沿うことは祖母を怒らせることであった・・・すなわち、(三島には)抑圧されたものを足場として反抗し、その反抗を通じて自己を築きあげる余地がなかった。一方への反抗は他方への迎合となるから、反抗の根拠としての自己は築かれないのである・・・このような条件のもとでは、子どもの精神は死なざるを得ない・・・
お陰で三島は能面のように無表情・無感動な子供になり、子供なら誰にでもある反抗期も無かったそうです。25、6歳ころから目立ってきたという三島のすっとんきょうな大爆笑は、無感動を取り繕うためのものに過ぎませんでした。
三島の精神的な死を示す徴候は他にもたくさんあって、たとえば彼の規律正しい生活、約束固さもその一つだと岸田氏は書いています。すなわち(三島の場合)自発的な感情や欲望が欠けるので、そういうものにもとづいて行動することができず、観念的に決定した何らかの規則にすがらざるを得なかったのです。
また、三島は甲店のビフテキは3000円だが、乙店のビフテキは5000円だから乙店の方がうまかった、というような判断をよくしていたそうです。
・・・彼(三島)が生理学的な意味で味覚が劣っていたというのではない。ただ、生理学的に感じられる舌の感覚が、ほかの感情や欲望と同じように、たしかに自分が感じている感覚であるという内的確信ないし実在感を欠いているのである。だからそれにもとづいて味の良し悪しを決めることができず、値段という外的、観念的尺度に頼らざるを得ない。
ボディビルによって隆々たる筋肉を人工栽培(三島自身の用語)する気になり得たことも、これと無縁のことではない。実在感をもち得ない自分の肉体に実在感を与えようとしたのであろう。たしかに筋肉は重量感をもち得たが、ボディビルは、その目的のためには無駄であったであろう・・・
岸田氏によれば、三島由紀夫は発狂しても何ら不思議の無い人格構造だそうです。
・・・しかし三島由紀夫は、その割腹の瞬間に至るまで、発狂していたのではなかった。精神病的人格構造をもっていながら発狂せずにすんだのは、彼が書いたからである。まとめの中心を欠いているため散乱していってしまいそうな諸傾向を作品という虚構の世界にはめこむことによって、彼はかろうじてつなぎとめた・・・三島由紀夫は、そのすぐれた理知を頼りとして意識的にこの操作を行った。というより、彼はそうするよりほかなかった。
この点が、彼が他の神経症的人格をもつ作家と異なるところである・・・(他の作家は)、たとえばマゾヒストを描くとき、作品の中でマゾヒストをみずから生きている・・・(それに対して)実感に頼れない三島由紀夫は、理知に頼ってその区別をつけざるを得ない・・・彼の作中人物が往々にして不自然なつくりものの感を免れがたいのは、そのためである・・・
・・・理知によって自己組織の代理物を築く試みには大きな陥穽がある。それは、いかなる傾向も、理知によって理論的に理解しないかぎりは、自分のものと認められないということである。そのような試みに乗り出した者は、自分のすべてを理解しつくすという不可能な企て、果てしない自己観察にかり立てられる・・・「仮面の告白」のなかで、生まれたときの産湯の記憶があると主張せざるを得なかったのも、自分に関することで自分は知らず、他の人のみが知っていることがあるということに耐えられないからである・・・
いかがですかね? これが岸田氏の分析した三島由紀夫です。「続・ものぐさ精神分析」では、他にも芥川龍之介、サリンジャー、太宰治を分析しています。どれも鋭い考察です。興味を持たれた方は、ぜひ一読してみてください。
それでは、「三島由紀夫論」のラスト部分を引用して、本日はおしまいとさせていただきます。これを読むと三島由紀夫という天才が何だか可哀想に思えてきます。
・・・彼(三島)の創作活動は、実在感のある自分を見出し、自己組織を築き、無感動な死んだ精神を生き返らせようとするあがきであった。しかし、築いた自己組織は代理物でしかなく、したがって、同性愛傾向を描こうと、疎外感を、マゾヒズムを、破壊衝動を、ナルチシズムを、ニヒリズムを、自然への憧憬を、そのほか何を描こうと、実在感のある自分を見出すことはできなかった。彼のあの多産性は、豊かな創造力の結果というより、つねに書きつづけていなければ崩れてしまう自己組織の代理物を崩すまいとするあせりの所産であった。
三島由紀夫のような作家には、いくつかの傑作をものにし、功成り名遂げて、今や筆を捨て悠々自適の老後を送るといったことは考えられないであろう。書くことをやめたときには、精神の崩壊が露呈し、発狂するほかないからである。
最後に彼は、反時代的、自己破壊的天皇崇拝におのれの存在の根拠を見出そうとし、今度こそは本気なのだ、本当の自分はここにあるのだということを自他に証明するために自衛隊になぐりこんで割腹自殺を遂げた。これほど過激な証明手段が必要だったということは、まさに彼が証明しようとしたことの正反対が真実であったことを証明する。そしてまた同時に、それは実在感のもてない彼の人生が割腹の苦痛にまさる苦痛であったことを証明する。しかし割腹によっても彼の求めたものは得られなかったであろう。
あるいはもしかしたら、肉体に激痛が走った最後の瞬間には、自分はこの世界に生きているという実在感を、ついに感じ得たであろうか?
ただ一つ確かなことは、彼は、産湯の記憶があると主張せざるを得なかったのと同じ理由から、自分の死も自分の意志の支配下におかねばならなかったことである。自分の意志以外のものに起因する病気や事故で死ぬことは、彼には耐えられなかったであろう。