和歌山小5殺人事件の容疑者が逮捕されて良かったですね。
それにしても容疑者の父親は大学教授(しかも僧侶)だという話じゃないですか。たまりませんねぇ、このバカ息子のお陰で父親は大学を辞めざるを得ないでしょう。
引きこもりの人間を、どうにかする手段はないものでしょうか?
逮捕といえば、タレントの小向美奈子がまたしても覚醒剤所持で逮捕されましたね。今回は実刑を免れられないでしょう。
覚醒剤というものは、一度ハマると、そこから抜け出すのは、そうとう難しいのでしょうね。
こちらの方は大丈夫でしょうか?
小向美奈子もデビューした頃は初々しい美少女だったのに残念です。今度こそ更生していただきたいものです。
美少女と言えば、さいきん広瀬すずちゃんがブレイクしておりますね。
確かに可愛いですけど、何だか近ごろ誰を見ても興味ないのよねぇ、ワタクシは。年を取った証拠かしら?
私は中野良子お姉さま派ですものね(当ブログの記事「気になる女性たち3(昔のいい女篇)」参照)、いつまでたっても・・・あはは(汗)・・・
上の写真の良子お姉さまは、これまた大好きな沖雅也アニキ(当ブログの記事「太陽にほえろ!」、「必殺シリーズ」参照)、そして島田陽子さん(当ブログの記事「素晴らしき角川映画」参照)とご一緒です。私にとっては夢のスリーショットですね、これは(苦笑)。
ナースに扮した良子お姉さんも素敵です。
下の写真はNHK大河ドラマ「国盗り物語」で明智光秀の妻を演じた良子お姉さまです。まさに菩薩の微笑みですな、良子お姉さまのお顔は。
・・・えー、という事で、今日の本題に入らせていただきたいと思います。
本日は以前お送り致しました「記憶に残る本(海外文学篇)」の続きです。
このところ会社設立や公共入札参加申請の書類作りに忙殺されており、体が疲労しきっておりますので、今回もサクっと軽めにご紹介させて頂きますね。
中野良子お姉さまもご出演なさっていたNHKドラマ「天下御免」の記事で、
「俺たちは皆どん底にいるが、星を見上げている者もいる」
というオスカー・ワイルドの言葉をご紹介いたしましたけど、そのワイルドの唯一の長編小説「ドリアン・グレイの肖像」が、私に強い印象を残しました。
ストーリー的には、エドガー・アラン・ポーの作品みたいなものでして、陳腐といえば陳腐なのですけど、ストーリーはともかく作品の中に登場する気の利いたセリフに私はシビれたのです。
たとえば、パーティに誰を呼びましょうかと訊かれると
「過去のある女と未来のある男」
と答えるとか。しゃれておりますでしょう?
この作品は1970年にヴィスコンティ映画の常連ヘルムート・バーガー主演で映画化もされました。私は観ておりませんけど。
才気あふれるワイルドは、他にも数々の名言を残しております。
「男は女の最初の恋人になりたがるが、
女は男の最後の恋人になりたがる」
「文学とジャーナリズムの違い。
ジャーナリズムは読むに耐えないが、文学は読む人がいない」
「生きるのはこの世でいちばん稀な事だ。
大抵の人は、ただ存在しているだけで、生きていない」
ワイルドは自分の肖像写真を撮らせるにあたり、写真家にこう言い放ったそうです。
「私から撮れるものは才能しかないが、君にそれが撮れるか」
カッコいいわぁ・・・
こんなワイルドと若いころ友人付き合いをしていたアンドレ・ジッドが、青春時代を回想して書いた作品が「一粒の麦もし死なずば」です。
「狭き門」で有名なジッドの、ワイルドや詩人マラルメとの交流が興味深く描かれております。ジッドの作品の中では、私はこれがいちばん好きです。
ドリアン・グレイ的な耽美派と言いますか頽廃的な美を追求する作品では、ジョルジュ・バタイユの「眼球譚」も忘れられません。
村上龍さんのデビュー作「限りなく透明に近いブルー」の乱交パーティシーンが「眼球譚」のあるシーンにそっくりでした。龍さんもバタイユに影響を受けたのですね。
「史上最も偉大な小説家は誰か?」
そう問われたら、私はマルキ・ド・サドと答えます。なぜならサドは小説でしか為し得ない事をしたからです。
サドが好きだなんてと申しますと「こいつ変態だな」と思われるかもしれません。たしかにサドの作品にはそういった類のシーンがふんだんに登場します。
しかしながら、そんなシーンは本当はどうでもいいのです。それは単なるサドのお遊び、趣味、読者サービスにすぎないのですから。
サドが本当に書きたかったのは、悪人たちが作中で雄弁に語る悪を正当化する論理なのです。
これを論文にしても生きません。小説の中で悪人たちに語らせてこそ生きるのです。
哲学者ニーチェはスタンダールを絶賛しましたけど、もしサドを読んでいたらスタンダールのことなど忘れてしまったことでしょう。それくらいサドの作品は画期的で爆発力があるのです。
当ブログの記事「記憶に残る本(その他諸々篇その1)」でご紹介いたしました吉本隆明著「書物の解体学」の一節を引用します。
・・・サドの諸作品をじぶんで体験していくと、ある激しい破壊力から持続的に世界を繚乱される。この破壊力は圧倒的であるために、読者はこの行からあの行までは《性》的に刺激され、この貢からあの貢までは、じぶんにのこった常識的な規範力を破壊される、といったことを数えあげる余裕はなく、まったくただひとつの強烈な世界を体験しつつあるのだという感に襲われる。もちろん奇譚小説特有の退屈な繰り返しもたくさんあるが、この退屈さでさえ読者に苛立たしいせき込みを促すだけだ。まさにこれは《芸術》なのだ・・・
おっしゃる通りです。何も付け加える事はございません。
サドの作品もいくつか映画化されておりまして、有名なところでは「ひとりぼっちの青春」(1969)の記事でご紹介した「バーバレラ」(1968)のロジェ・ヴァディム監督が、当時の恋人カトリーヌ・ドヌーヴ(前にもいちど言いましたけど、羨ましすぎるぜ、こいつ)主演で撮った「悪徳の栄え」(1969)があります。私は観ておりませんけど。
それから、「王女メディア」(1969)の記事の中でいちど言及した、パゾリーニ監督の「ソドムの市」(1975)。
ひどいグロ映画でしたねぇ。私はもう結構という感じです(苦笑)。
バタイユやサドの小説は私たちを怪しい世界へ誘ってくれますけど、SF小説にもそういう作品があるんですよ。
それが、レイ・ブラッドベリの「何かが道をやってくる」です。
嵐の夜に避雷針を売る男が町へやって来るところから物語が始まるのですけど、避雷針のセールスマン? えええ? そんな人、見たことないんですけど。
でも、何だかステキ。ファンタジー(笑)。
SF小説なら、やはりフィリップ・K・ディックですよね。
映画「ブレードランナー」(1982)や
「トータル・リコール」(1990)等の原作者として今やすっかりメジャーとなったディック。
しかしながら、ご本人はメジャーになる前に、貧乏なままお亡くなりになったんですよね。お可哀想に。
そんなディックの小説・・・彼の書いた長編小説はあまり読んでおりませんし、読んだ作品もピンと来ませんでしたけど、短編は大好きで愛しております。
初めて読んだディックの短編小説が「変種第二号」(「人間狩り」という邦題もあり)でした。
核戦争後の世界・・・地上にはクロウという蟹みたいなロボットがウロウロしていて、人間を見つけると襲いかかって殺してしまう。
そんな中、進化したクロウが自分たちで人間型のロボットを作り上げ、そして・・・というお話です。
素晴らしいイマジネーション力、素晴らしいストーリーテラー力に、私は感服いたしました。
他にも「ハンギング・ストレンジャー」、「森の中の笛吹き」、「パーキー・パットの日々」、「にせもの」、「植民地」、「あてのない船」etc・・・と、ディックの短編は名作の宝庫です。
W・W・ジェイコブズ作「猿の手」のように起承転結がしっかり決まったディックの短編小説・・・ぜひ皆さんにも読んでいただきたいです。
SF小説界の大家、H・G・ウェルズの短編小説も大好きです。
「塀についたドア」なんか幻想的で良かったなぁ。
魔法使いが魔法で地球の自転を止めたところ、慣性の法則により地上の物が根こそぎ空中へふっ飛ばされる「奇跡をおこせる男」も面白かったです。
しかしながら、ウェルズの最も有名な短編(中編?)小説は「タイム・マシン」ですよね、やっぱり。
タイム・マシンで未来へ旅立った科学者が見たものは、地上に住む無気力な人間と、それを食料にしている地底人モーロックの姿だった・・・というお話は、1960年にヒッチコック監督の「鳥」(1963)のロッド・テイラー主演で映画化されました。
たいへん面白い映画でしたので、おススメです。
ヒロインを演じたイヴェット・ミミューが、とってもチャーミングでした。
不気味な地底世界への入口。
そして、恐ろしい(可愛い?)モーロック。
さて、本日、ラストにご紹介するのは、J・D・サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」です。
数年前、村上春樹翻訳版が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という邦題で出版されましたけど、ダメですね、そんなタイトル。味気無さすぎます。
やはり「ライ麦畑でつかまえて」でしょう、この作品のタイトルは。
好きです、サリンジャーの作品。何か良いですよね、サリンジャーは。しみじみと良い。
本作は、全寮制の学校を退学になったホールデン少年が、ニューヨークの実家へ戻るまでに起きた出来事を描いた物語です。
岸田秀先生が「続ものぐさ精神分析」の中で本作を分析しております。
・・・(本作の主人公である)ホールデンが粉砕しようとしているのは、純情な子どもと不潔なおとなとの対立というありふれたパターンをも含めた上での既成の価値であり、彼は「大人が善とし美としているもののまやかし」を暴露して、「まやかし」でない真実の善と美を提示しようとしているのではなく、「まやかし」であろうがなかろうが、一定の規範としての善そのもの、美そのものを疑っているのである。彼の言動が「誇張にみちて」いるのは、おとなの価値に対する彼の憤激の表現であるというよりはむしろ、彼の自己不確実性、希薄な現実感の表現であろう・・・
私は、本作のラスト、妹がメリーゴーランドに乗っている姿を、ホールデンがベンチに座って眺めているシーンが大好きです。
他にサリンジャーの作品では、「ナインストーリーズ」収録の「バナナフィッシュにうってつけの日」と「笑い男」を特に気に入っております。
思春期の不安定な揺れる気持ち・・・豊かな社会の中における希薄な現実感・・・それらをうまく表現したサリンジャーの小説・・・いま高校生や大学生である若い方には、ぜひ読んでいただきたい作品です。
お年を召した方には・・・今さらもうどうでも良いですわね、そんな事・・・あはは(汗)・・・