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気狂いピエロ

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 今日から8月ですね。それにしては、ちょいと涼しいですけど・・・
 
 ともかくも夏本番です。夏、太陽、海とくれば、いよいよ私の大好きな映画、ジャン・リュック・ゴダール監督の最高傑作「気狂いピエロ」(1965)のご紹介です(これで「きちがいピエロ」と読むんですからね。「きぐるいピエロ」ではありませんよ。念のため)。
 
 「ロッキー」(1977)の記事にも書きましたけど、私の最も好きな映画は、「ロッキー」か「気狂いピエロ」のどちらかです。
 「気狂いピエロ」がいちばん好きですと言っておいた方がカッコいいんですかね? いかにも教養がありそうで・・・インテリぽくって・・・あはは・・・
 
 1950年代のおしまいから、60年代、70年代にかけて、世界の文化は新しい時代に突入いたしました。
 ヒッピー文化、反戦運動・・・若い男たちは髪を伸ばし、男女の性差が曖昧になってきました。
 そして、音楽の分野においてはビートルズが革命を起こし、現代美術の分野ではアンディ・ウォーホールらのポップアートが革命を起こしました。
 映画の分野においても革命が起きました。それがフランスから始まったヌーヴェルヴァーグ(フランス語で新しい波という意味)と呼ばれる映画運動です。
 
 すなわち雑誌「カイエ・デュ・シネマ」に寄稿していた若い映画評論家たちが、自分たちの感性と方法(街頭撮影や即興演出など)で、それまでの既成概念に囚われない、斬新な映画を発表し始めたのです。
 その面々というのが、フランソワ・トリュフォー(代表作「大人は判ってくれない」1959)、クロード・シャブロル(「いとこ同志」1959)、ジャック・リヴェット(「修道女」1967)、エリック・ロメール(「緑の光線」1986)たちです。
 
 彼らの中でも、とりわけゴダールのデビュー作「勝手にしやがれ」(1960)は、世界じゅうに衝撃を与えました。
 
イメージ 1
 
 ここらへんの様子を、映画作家アレクサンドル・アストリュックという人が、自伝の中でこんな風に書いています(河出書房新社「人生読本 映画」収録の山田宏一氏の論文「〈深い、深い、深い〉悲しみ/勝手にしやがれ」より引用)。
 
 
 ・・・ヌーヴェルヴァーグの真の大事件は、ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」だった。今度こそ傑作が生まれたのである。
 「勝手にしやがれ」は爆弾のように破裂した。ゴダールはすべての映画の法則を、ひとつの例外も許さずに、くつがえしてしまった。
 まず、全篇街頭にキャメラを持ち出して撮った。キャメラの方を見ている通行人を冷静にキャメラに収め、ハンフリー・ボガート主演の映画を上映している映画館の正面を撮り、無数の引用を持ち込み、それらすべてを狂気とナンセンスと怒りの目くばせに満ち溢れた運動に還元した。
 自分の好きな数々の映画のサウンド・トラックの断片を脈略なく投げ込み、いわゆる映画音楽を入れるのをやめた。
 こうして、最も驚くべきことは、カットつなぎを基本とする神聖犯すべからざる編集(モンタージュ)の法則を完全にくつがえしてしまったことだ。編集が終わった段階では、映画は4時間の長さだった。2時間はカットしなければならなかった。
 こんな場合、いくつかのシーンを思いきってバサッとカットしてしまうのが普通なのだが、ゴダールはそうせずに、フィルムを両手にかかえて、各カットの中でコマをつまむという方法をとった。文字通り映像をむしり取ったのである。こうして、イメージが飛んでしまって、アクションつなぎが欠落したゴダール式のにせのカットつなぎ(あるいはむしろつなぎまちがい)が生まれた。
 それに制作費が足りなかったので、現像費を浮かすために、フェイドもオーバーラップもやめた。激しく、ゴツゴツした、たたみかけるような、息せききった感じの、すばらしく斬新なリズムがこうして生まれた。その後、テレビが開拓していくモンタージュのテクニックを、ゴダールはすでに一挙に創造してしまった。たった一本の映画で、ゴダールは明日の映画を発明したのである。そこから、今日になっても、残念ながら、誰も抜け出せずにいる・・・
 
 
 まったくアストリュックさんのおっしゃる通りで、何も付け加える事は無いのですが、残念ながら「勝手にしやがれ」を観ても、それほど新しい印象は受けませんでした。むしろ未完成な欠点部分(アラ)ばかりが目につきました。少なくとも私には。時代もあるんでしょうけど。
 
 しかし、5年後につくられた「気狂いピエロ」では、すでに円熟の域に達し、すばらしい完成度を見せております。いま観ても充分すぎるほど新鮮で衝撃的です。
 山田氏の前出の論文によりますと、代表作はどの作品かと質問されたジャン・ポール・ベルモンドは、こう答えたそうです。
 「いちばん愛着のある作品は、やはり「勝手にしやがれ」だね。何といっても俺が初めて世に認められた真のデビュー作だし、監督のゴダールも好きだからね。俺の生涯の一本となると、こいつは文句なしに「気狂いピエロ」だ」
 
イメージ 2
 
 「気狂いピエロ」といってもサーカスのお話ではないのですよ。女に操られるバカな男、というようなイメージです。
 「そうでしょう? ピエロ」とマリアンヌが呼びかけるたびに、「俺の名前はフェルディナンだ」とフェルディナンが言い返すシーンが何回も出てきます。
 
 金持ち女と結婚して何不自由ない生活を送っていたフェルディナン(演じるのはベルモンド)は、昔つきあっていたマリアンヌ(演じるのは当時ゴダールの奥さんだったアンナ・カリーナ)と再会したことをきっかけに、家庭を捨て、マリアンヌと共に南仏へ逃避行する・・・というのがおおまかなストーリーなんですけど、そんな事はどうでもいい感じです。どうせストーリーなんか適当なんですから、ゴダールの映画の場合は。
 
イメージ 3
 
 上のポスターを見ても、何だか色んなものがゴタゴタと詰まっている感じがしますでしょう?  そうなんです。その通りなんですよ。
 赤や青や黄の色彩。海と空と太陽。ゴッホやルノアールの絵画。様々な人物。様々な音楽。様々な文学作品やマンガ・・・それらがコラージュのように縦横無尽に引用されて、ひとつの世界を・・・美しく、悲しく、過激で、滑稽な世界を作り上げている・・・これはそういう映画なのです。
 
 実在の映画監督サミエル・フラーが登場して「映画は戦場のようなものだ・・・愛・・・憎しみ・・・アクション・・・すなわち感動」と語ったかと思えば、当時ニースの名物婆さんだった(らしい)アイシャ・アバディ王女が登場してヨットの上で演説する。
 
 地中海をバックにした雑木林で、マリアンヌはミュージカルのまねごとをして、下手くそな「わたしの運命線」を歌い、踊る。
 「見てよ、わたしの運命線。この短い運命線。将来がとても心配だわ♪」
 すると、それに合わせて、フェルディナンが「僕が欲しいのは君のヒップの線だ」と歌う。
 
 そして文学・・・セリーヌランボー、プルースト、フォークナーなどが引用されます。
 とりわけ、私の大好きなセリーヌは重要で、そもそも主人公の名前自体がルイ・フェルディナン・セリーヌからの引用ですし、劇中に「夜の果ての旅」や「なしくずしの死」というタイトル名が登場しますし、フェルディナンがセリーヌの小説「ギニョルズ・バンド」を朗読します。
 私はこの映画を初めて観たとき、セリーヌの名前が出てきたので感動いたしました。ゴダールさんはちゃんと分かっているんだなぁと思って。そしてランボーでしょう? 私の中ではランボー、セリーヌ、ゴダールは繋がっています。彼らには血脈がある。
 
 この映画を観るまで私は、映画というものを芸術作品としては一段格の低い、どちらかといえば娯楽に近いものと思っておりましたが、この作品を観て認識がガラリと変わりました。
 映画は、文学も、音楽も、絵画も、演劇も、彫刻も、すべてを飲み込む総合芸術なんですね。
 
イメージ 4
                                    (講談社「20世紀シネマ館34」より)
 
 他にも印象的なシーンがいっぱいあるんですよ。
 
 広い畑の真ん中にポツンと残された高速道路の一部らしきもの。そこでフェルディナンとマリアンヌは交通事故を偽装するのですが、あれは何なんでしょう? 戦争の残骸でしょうか?
 
 金を稼ぐため、港に停泊中の軍艦のアメリカ人相手に、フェルディナンとマリアンヌが演じるベトナム戦争。英語がしゃべれないフェルディナンはやたら「オー、イエィ」を連発する。可笑し。
 「オー、イエィ! ニューヨーク! イエィ! ハリウッド! オー、イエィ! コミュニスト!」
 するとベトナム人に扮したマリアンヌが
 「ムニャ、ムニャ、ムニャ」
 
 また、ゴダールの作品は、よく覚醒する映画と言われます。普通の映画は、観客に現実を忘れさせ、夢の世界に引き込むわけですよね? ところが、ゴダールの映画では、常に現実を意識させます。本作でもフェルディナンはスクリーンのこちら側にいる観客に話しかけます。現代人特有のしらけた感性がそうさせるのでしょうね。
 
 今ではあたりまえになってしまいましたけど、むきだしのコンクリートの壁に美を認めるゴダールの美意識も大好きです。
 
 そして、全篇にかかるフェルディナンとマリアンヌのモノローグ。
 
 「ある話を」
 「複雑な話を」
 「私の人間関係」
 「悪夢からの逃走」
 「君の周りは複雑だ」
 「いいえ、単純よ」
 
 「第8章 地獄の季節」
 「第8章 わたしたちはフランスを縦断した」
 「幻のように」
 「鏡のように」
 
 「彼女の体を抱いて涙した」
 「それが最初で唯一の夢だった」
 
 ぜんぶゴダールが書いたんでしょうけど、どれもとても詩的で心地よい響きがします。
 
 この作品はゴダール監督の最高傑作であり、才能だけで出来上がっているような映画です。おそらく本作をご覧になった皆さんは、遠いところへ旅をしたような気持ちになり、そして次にこう思うことでしょう。才能があるって、何てカッコいいんだろう、と(中には眠かったという感想を述べる不逞の輩もおりますけど・・・)。
 
 「気狂いピエロ」というタイトルが刺激的すぎるせいか(テレビ放映の際は原題の「ピエロ・ル・フ」で表記された)、いまいち知られていませんが、これこそが映画芸術であり、傑作の名に値する作品です。
 
 最後に劇中でマリアンヌが書いた「気狂いピエロの詩」を引用して、今回はおしまいといたします。本作は必修ですよ。絶対に観てくださいね。アロンジ!アロンゾ!
 
   やさしくて 残酷
   現実的で 超現実的
   おそろしくて 滑稽
   夜のようで 昼のよう
   普通で 異常
   素晴らしき 気狂いピエロ!

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