季節の変わり目のせいか、風邪気味で体調が悪いです。皆さんは大丈夫でしょうか?
大丈夫と言えば、ウィンドウズXPのサポートが明日までですよね。企業や公共機関では、まだまだたくさんのXPパソコンが使われているとか。大丈夫なんでしょうか?
明日と言えば、理研に不服申し立てをした小保方晴子さんが、明日、記者会見を開くそうですけど、本当にオボちゃんは私たちの前に現れるのでしょうか?
私のこのブログも今日(8日)で2度目の誕生日を迎えました。これもひとえに読んでくださった皆様のお陰と感謝しております。ありがとうございます。
でも、すいませんねぇ、終わる終わると言いながら、なかなか終わらなくて。
前から申し上げている通り、このブログは私の愛する文学作品や映画、音楽などをぜんぶ紹介し終えたら、そこで最終回となるわけですけど、まだ少し残っているんですよ、皆様にご紹介したい作品が。ですから、今しばらくお付き合いくださいね。よろしくです♪
さて、記念すべき第2回目の誕生日である本日のテーマは文学、アメリカのノーベル賞作家ウィリアム・フォークナーの作品を取り上げます。
私が大学生の時、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を始めとするラテンアメリカの文学が大流行いたしまして、そのラテンアメリカの作家たちに大きな影響を与えたのが、フォークナーのいわゆる《ヨクナパトーファ・サーガ》だという説明でした。
そこで私もフォークナーの「響きと怒り」や「八月の光」、「サンクチュアリ」という代表作を読んでみたのですけど、何だかピンと来ないし、面白くないんですよね。
映画「気狂いピエロ」(1965)のゴダール監督が、フォークナーを大好きで、よく作品中に引用しているのが、私にはさっぱり理解できませんでした。
しかし、後に「冷血」や「ティファニーで朝食を」等の小説で知られるトルーマン・カポーティの対話集「カポーティとの対話」(ローレンス・グローベル著、川本三郎訳、文藝春秋社刊)を読みましたところ、カポーティがこう発言していたんですね。
・・・彼(フォークナー)の作品は完全に無謀だ。私はフォークナーをそれほど評価しているとはいえない・・・その多くの作品において、彼は、読者の頭を混乱させる、自己抑制のきかなかった作家だったといっていい・・・
・・・フォークナーはスタイリストではなかった。彼は一種まとまりのない文章におちこんでしまって、それを本当にコントロールすることができなかった。彼は何かについて書くという作家だった。そう、彼にとって重要なのは内容だった。彼は文章にも注意を払ったが、あくまで内容の作家だった。彼はいい文章を書けなかった・・・
フォークナーの長編小説に対する的確な批評だと私は思います。ヘミングウェイやスタインベックなど他のアメリカ作家と違って《意識の流れ》を描くフォークナーの文章は読みずらく、分かりずらく、彼の試みが成功しているとは到底思えないからです。
ところが、そんなカポーティでさえも絶賛しているのが、フォークナーの短編小説、特に今回ご紹介する「あの夕陽」です。
「次の世代まで忘れられないでいる作家は?」
という質問に対して、カポーティはこう答えています。
「フォークナーもアメリカの作家の中で残ると思うが、彼の場合もいくつかの短編小説によってだ」
私も同感です。
そして、この私もフォークナーの短編小説「あの夕陽」に、初めて読んだとき以来ずっと魅了され続けております。
物語の舞台は架空の土地ヨクナパトーファ郡ジェファーソン。黒人差別が根強い南部の町という設定になっており、そこに住むコンプソン家に雇われている若い黒人の洗濯女ナンシーが主人公です。
洗濯仕事の収入だけでは食っていけないナンシーは、白人に体を売って小金を稼いでいた。ナンシーの客の中には町の名士もいて、彼らは金持ちのくせにたびたびナンシーに支払う金を踏み倒していた。立場の弱いナンシーがそれに対して抗議しても聞き入れられることは無く、反対に暴力を振るわれるばかりだった。
「あたしは黒ん坊にすぎないのよ」とナンシーは言う。「これもあたしが悪いんじゃないけどね」
そのうちナンシーが妊娠する。夫であるジージアスの種じゃない子を。
ジージアスは言う。
「おれには白人の台所をうろつくことはできねえ。しかし、白人はおれんところの台所をうろついたってかまわねえんだよ。白人は勝手におれの家にはいってきても、おれはそいつをとめることもできねえんだ。白人がおれの家にはいってきてえと思うが最後、おれは家なんか持たねえとおんなじこった」
ジージアスは姿をくらます。それ以来、ジージアスに殺されると怯え始めたナンシーは仕事が手につかず、さらに一人で家へ帰れなくなり、コンプソン家の人々を困惑させる・・・というのが、おおまかなストーリーです。
本作が素晴らしいのは、この物語を子供たちの視線から描いていることです。物語を語るのはコンプソン家の長男である9歳のクウェンティン。父親やナンシーら大人たちの会話と、7歳の妹キャディー、5歳の弟ジェイソンの会話が同列に並べられ、それが作品に躍動感と立体感を与えています。お見事です。この作品ひとつでフォークナーは世界文学史に残ると言っても過言では無いでしょう。
それでは新潮文庫「フォークナー短編集」(龍口直太郎訳)より「あの夕陽」のラスト部分を引用して、本日はおしまいとさせていただきます。ナンシーの家にいた子供たちを父親が連れて帰るシーンです。
本書には他にも「エミリーにバラを」等の優れた短編小説が収録されていますので、ぜひ読んでみてくださいね。
「バカバカしい」と父はいった。「まあ、あしたの朝、イの一番に台所へやってくるのは、きっとおまえさんだろうよ」
「たぶん眼にとまるものをなにか見るでしょうね」とナンシーはいった。「だけど、それがなんであるか、神さまだけがごぞんじでしょうよ」
暖炉の前にすわった彼女を、そのままそこに残して、私たちは立ち去った。
「ここに来て、かんぬきをかけておくれ」
と父はいった。しかし、彼女は動こうともしなかった。彼女はそこの、ランプと暖炉のあいだにじっとすわったまま、私たちのほうをふたたび見ることさえしなかった。小道をすこし下がったところからふり返ると、開いた戸口から彼女の姿を見ることができた。
「いったい、お父ちゃん」とキャディーがたずねた。「どんなことが起きるの?」
「なんにも」
と父は答えた。ジェイソンは父におんぶしていたので、私たちのうちでいちばん背が高かった。私たちは溝のなかにおりていった。私はおちついて溝のなかを見た。月の光と陰の交わるあたりには、べつにたいしたものも見えなかった。
「もしジージアスがここに隠れているとすれば、あの人はあたしたちを見ることができるでしょうね?」
とキャディーはいった。
「やっこさんはあすこにいやしないよ」と父はいった「とっくの昔に、どこかへ行っちゃったさ」
「姉ちゃんがぼくをこさせたんだ」とジェイソンは高いところでいった。夜空を背景にしてながめると、まるで父の胴体に、大小二つの頭がついているようだった。「ぼくは来たくなかったんだよ」
私たちは溝から出た。ナンシーの家とその開いた戸口はまだ見ることができたが、戸をあけたまま、火の前にすわっているナンシーは見えなかった。彼女は疲れてしまったからである。
「ああ、すっかり疲れちゃった」と彼女はいった。「あたしは黒ん坊にすぎないんだわ。そんなこと、あたしの罪じゃないけど」
しかし、彼女の声は聞くことができた。というのは、私たちが溝から上がったすぐあとで、彼女は、例の歌声ではないが、歌声でなくもない音をたてはじめたからである。
「お父ちゃん、これからは、だれがうちの洗濯をしてくれるの?」
と私がたずねた。
「ぼく黒ん坊じゃないよ」とジェイソンは、父の頭のすぐそばの、高いところでいった。
「おまえはそれよりもっと悪いんだわ」とキャディーがいった。「告げ口屋だからね。もしなにかが飛びだしてきたら、おまえは黒ん坊よりもこわがるね」
「こわがらないさ」
とジェイソン。
「おまえは泣きだすよ」
とキャディー。
「これ、キャディー!」
と父はしかった。
「ぼく泣かないよ!」
「臆病猫だよ」
とキャディーはいった。
「これ、キャンダシー!」
と父はいった。