日本のWカップ初戦はコートジボワールにやられちゃいましたね。
「本来の日本のサッカーが出来ていなかった」とか「ドログバにやられた」とか色々言われておりますけど、私の見た限りでは実力通りの結果ではなかったかと・・・FIFAランキングがどこまで正確に実力を反映しているのか分かりませんが、それでも23位のコートジボワールと46位の日本の差は歴然でしたね。
「次のギリシャ戦には勝てる」
そう言う人が多いのですけど、ギリシャのFIFAランキングは12位なんですよね。大丈夫なんでしょうか? もちろん私は日本チームに勝ってもらいたいし、日本チームを応援しているのですけど・・・
前回は絵画のお話をさせていただきました。
たまには一流画家の作品を鑑賞するのもいいものですよ。どこの図書館へ行っても大きな美術全集や画集が置いてありますし、ネットでも簡単に見れますから。
出来れば解説もすべて読んでもらいたいのですけど、パラパラとページをめくって絵を眺めるだけでもためになりますので、ぜひ美術の勉強も怠りなくやっておいてくださいね。じゃないと単位をあげませんよ(笑)。
上の絵はルーベンスが最初の妻イザベラを描いたデッサンですけど、何かすごくないですか? 二次元の紙の表面から三次元の生きた人間の顔が浮かび上がってくるようで。
これが芸術というものです。
ちなみにルーベンスは「フランダースの犬」の主人公ネロが憧れる画家です。アニメ版では大聖堂にあるルーベンスの絵の前でネロとパトラッシュが死んでゆくんですよね・・・天国からたくさんの天使たちが舞い降りてきて・・・泣けましたね、あのシーンは・・・
ルーベンスの他にもアングル、ドラクロワ、ゴッホ、ルノアール、クレー、シャガール、ピカソ、ダリなど素晴らしい画家はたくさんおりますので、彼らの作品もきっちり鑑賞しておいてくださいね。
あ、そうそう、当ブログの記事「アポリネールの詩」でご紹介したキリコの作品もね。キリコの描く塔の絵が、私は好きなんです。
さて、詩人アポリネールの名前が出たところで、今日の本題です。今回は詩人ジャン・コクトーのお話をさせていただきます。
いま詩人と書きましたけど、コクトーは単に詩人というだけでなく、小説家、劇作家、評論家、画家、映画監督とマルチに活躍した人でした。全身が才能でキラキラ輝いているような人でしたね。
詩人としてのコクトーは、「耳」という作品でよく知られています。
私の耳は貝のから
海の響きをなつかしむ (堀口大学訳)
この詩は皆さんもご存知でしょう? 有名な作品ですものね。昔、梶原一騎原作のアニメ「巨人の星」の中で、看護婦の美奈さんが、主人公の星飛雄馬にこの詩を朗読してあげていましたね、たしか宮崎県の青島海岸で。
それから、「シャボン玉」という詩も、可愛くて、品があって、ロマンチックで、私は大好きです。
シャボン玉の中へは
庭は這入れません
まわりをくるくる廻っています (堀口大学訳)
小説家としてのコクトーは、「恐るべき子供たち」や「山師トマ」、「大股びらき」などで有名です。
三島由紀夫がコクトーに強い影響を受けております。その証拠に、三島の「仮面の告白」には、コクトーの自伝的小説「白書」そっくりな箇所がありますもの。
「あ、三島センセ、コクトーのここをパクったんだな」
そう思ったものです、私は、大学生のときに。
それでは三島由紀夫が「文章読本」の中で絶賛していた「山師トマ」の一節をお読みください(河盛好蔵訳)。
・・・冷たい夜は、星と、白く光る照明弾とに鏤められていた。ギヨムは初めて、たった独りの自分を見出した。最後の幕が上がるのである。小児とお伽芝居が混り合うのだ。ギヨムが遂に恋を知るのである。
廻り道をする代わりに、彼は最前線の胸壁を伝って埋立地まで行った。そこからは這う必要があった。ブルウイユと彼は、こんな赤色人種的な実習に秀れていた。
数メートル行くと、彼は死骸に一つ行き当たった。
一つの霊魂が訳もなく大急ぎでこの肉体を棄て去っていた。彼はもの珍しそうな冷たい眼でこれを調べた。
彼は道を続けた。また他の死骸に出会った。今度のは虐殺されて、酔っぱらいに脱ぎ棄てられたカラーや、靴や、ネクタイや、ワイシャツのように投げ出されてあった・・・
さすがは三島由紀夫が惚れ込むだけあって比喩が見事に決まった名文ですよね。
評論家としてコクトーは様々な文章を書いておりますけど、阿片中毒治療中に書いた「阿片」(堀口大学訳)というエッセイに、私なんぞは特に魅了されました。颯爽としていて、美しくて、華麗で、豊饒で、エスプリが効いていて・・・皆さんもぜひ一度お読みくださいね。「失われた時を求めて」の作者マルセル・プルーストとの思い出を綴った部分などはとても印象的ですよ。
ここではコクトーが映画「モロッコ」(1930)等で有名な大女優マルレーネ・ディートリッヒについて書いた文章をご紹介いたしますね(梁木靖弘訳)。
・・・マルレーネを紹介したりはしません。彼女に敬意を表し、あるがままの彼女に感謝するばかりです。彼女のように望みのままに、完全武装をして伝説のなかへ入っていく例はまれです。マルレーネは騎兵遊びをする子供たちと同じように、椅子に馬乗りになって伝説のなかへ入っていった・・・
・・・マルレーネ・ディートリッヒ・・・あなたの名はなでるように始まり、むちのひと打ちで終わる。あなたのつける羽毛や毛皮は、獣の毛皮や鳥の羽毛のように、あなたの身体のもののようだ。
あなたの声、あなたのまなざしはローレライのもの。ローレライは危険でも、あなたはそうではない。なぜなら、あなたの美の秘密は、あなたが真直ぐな心を保つよう気をつけているところにあるから・・・
コクトーは画家や映画監督としても素晴らしい作品を残しました。特にコクトーの映画が、私は大好きです。
映画処女作である「詩人の血」(1930)には、トリック撮影やフィルムの逆回し、動く彫像など、後のコクトーの映画の要素がすべて入っております。コクトーにとって映画とは、あり余るおのれの才能で遊ぶためのおもちゃ箱みたいなものだったのでしょうね。
そんなコクトーの映画の代表作は、まず「美女と野獣」(1946)。
「美女と野獣」というと1991年に公開されたディズニーのアニメ映画を思い浮かべる人が多いと思いますけど、そのずっと前にコクトーが作っていたのですよ、詩的で、幻想的で、とっても美しい作品を。
確かにディズニーのアニメ版も素晴らしかったですけど、野獣がおっさん臭いところには閉口しましたね。まるでベルのお父っちゃんみたいなんですもの。野獣の正体はうら若き王子さまなのですから、もっと若々しくしなくちゃね。
その点、コクトー版の野獣には青年っぽさがありました。
また、コクトー版は衣装がおしゃれですし(日本の歌舞伎の影響を受けたらしい)、蝋燭立てが人間の手になっていたりと、何もかもがハイセンスでした。
次に「オルフェ」(1949)。
これは、死んだ愛妻を生き返らせるため冥界へ妻を迎えに行ったオルフェが、「地上に戻るまでは絶対に妻の姿を見ない」という約束を破り、妻を見てしまったため妻の取り戻しに失敗するというギリシャ神話(日本にもイザナギ・イザナミの似たような神話がある)を、現代の物語にアレンジした作品です。
主人公の詩人オルフェを演じるのはジャン・マレー。
「美女と野獣」を初め、ほとんどのコクトーの映画で主役を演じた、ギリシャ彫刻のような凛々しいお顔のイケメンです。彼はホモ太郎侍コクトーの愛人でもありました。つまりヴィスコンティ映画におけるヘルムート・バーガーみたいなものですな。あはは。
オルフェに恋する死神を演じるのは、マリア・カザレス。
映画「天井桟敷の人々」(1944)の時は可憐な若娘でしたが、本作では貫録のある美しき大姐御を見事に演じています。
地上で活動する死神たちには冥界からラジオの電波で指令が送られてくるのですけど、それが「沈黙は後退する」だの「鳥は指でさえずる」だの、まるで第二次世界大戦中に連合国側がドイツの支配下にあったフランスのレジスタンスに送った暗号みたいで好きです(笑)。
オルフェが冥界へ行く途中、ガラス売りのおじさんの霊が横切ったりするのですけど、こういう意味不明なところも大好きです(笑)。
そして冥界の風景。どこかの廃墟で撮影したのでしょうけど、こういうところもセンスいいですよね。とにかくコクトーの芸術センスには脱帽するばかりです。
コクトーの映画では、他に「双頭の鷲」(1947)という作品も美しくて大好きです。
文学でも絵画でも映画でも何でもいいですから、ジャン・コクトーの素晴らしい芸術作品を鑑賞してくださいね。感性が磨かれますよ。